そして、それから5年ほど後のこと。
( 会いに行こう。お礼を言おう。 )
背と髪の伸びたあの時の少女、リリル=ソルスィエは、ある決意を固めていた。
5年前の恩人、時渡りに会いに行くという決意を。
あれからリルは修行をし続け、ほぼ完璧に魔力を御すことが出来るようになっていた。もともと勤勉で優秀な彼女。そう長くはかからなかった。そして、ここからは天才のなせる業だが、すでに時を渡る術まで見つけ、何度か試していた。しかし、200年近い年月を移動するのは初めてのこと。もし時空の狭間にはまってしまったら、戻れなくなるかもしれない。
「それでも、会いに行かなきゃ。お礼を言いたいから」
支度をしたリルは誰に言うでもなく、呟いた。
ロード魔法学校には面白い慣習がある。主席で卒業した子には、伝説の時渡りを模した帽子と長衣が贈られるのだ。
魔法学校をトップの成績で卒業したリルは、その証に、あのときの時渡りと全く同じ帽子と長衣を身に着け、あのとき貰った腕輪と、楽器を持っていた。
「驚くかな‥自分と同じ格好してたら‥」
リルはくすくす笑った。生来いたずら好きな彼女は、そんなことも考えていた。
「‥さて‥‥じゃあ、渡りますか!」
徹夜で書いた大きな魔法陣の上にのると、複雑な細工の杖で中心をコン、と突いた。石の壁に囲まれた空間に、硬質な音が響き、魔法陣が光を発し始めた。
「魔女、リリティールア=エリフ=ソルスィエの名において、我は此処に盟誓す」
大きく、複雑な魔術儀式をする時ぐらいにしか使わない真名は、両親にすら教えてはいけないものだ。魔法学校を卒業する時に長い儀式を経て授けられるもので、真名を知られることは、誰かに常に心臓を握られているのと同じだという。
「決して嘘偽りを申さず、すべての精霊を敬い、理を侵さぬことを」
ここまでは前置き。時を渡るための言霊はこれからだ。
「全ての命を全ての土を全ての空を、世界のすべてを司るものよ。巡りゆく時の早瀬に浮かぶ、一艘の船を」
この言霊も、魔法陣も、血の汗を流すような修行の結果。
「流れを厭わず、騙しもせぬその船を、その小さな船を、あの岸辺まで運んでおくれ」
言霊に呼応するように、中心から、白墨で書かれた魔術式が次第に輝く金色へと染まってゆく。
「そして、時の精霊よ、ただ一時、私にしるべを与えておくれ」
術式を囲む最後の白墨で書かれた円が時計回りに金色へ変わり、術式の中心には魔力により生じた風が渦を巻いた。
「狭間を越えて戻れたならば、そのときは盟約を果たそう」
リルの髪が、長衣がばさばさと音を立ててなびく。風に倒されぬように両手で杖を握った。この術式に必要なものは、膨大な魔力と、時の精霊に捧げる、記憶。時の精霊はいつでも孤独で退屈で、そしていつもそれを忘れられるものを求めている。時を渡ることと引き換えに、自分の大切な記憶を精霊に見せる、それが時渡りの盟約。
「悠久の孤独と退屈を、束の間でも癒すものを」
汝に捧げる、と言い終わると同時に、四角い石室は白い閃光に満たされ、リルは全身が引っ張られるのを感じ、ぎゅうと目を瞑った。数瞬の後、魔力のざわめきがなくなった。夜露にぬれた草のにおいを鼻腔に感じたリルは、ゆっくりと目を開き、ほう、と息をついた。
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「懐かしいな‥‥どんなに時が経っても、この森は、この空間は変わらないんだね‥‥‥」
リルは、銀月灯の白磁の幹に手を当てて、懐かしそうに目を細めた。
自分が時渡りと会ってから、200年後の大満月の夜。そこに今、リルはいた。
真上にぽっかり浮かぶ満月は、煌々とした光を振りまいている。夜の澄んだ空気を吸い込んで月を振り仰ぐと、微かな風に木の葉の擦れ合う音がざわざわと響いた。大きな魔力を使いこなせるようになった今のリルには、月の光の心地よさがとてもよく分かった。
「ここで‥あの人に会って‥この腕輪を貰った‥」
思えば、たった5年前。
なのに、何十年も、何百年も、悠久の時を待ち焦がれてきたような感覚になるのは、何故なのだろう。ふと思い、何か落ち着かない気分になって再び夜空を見上げた。
「あ‥‥」
今にも開きそうに膨らんだ銀月灯の蕾。夜露がきらめいて、今の姿も十分美しいことに、リルは初めて気が付いた。
あのときは、そんな余裕は無かったから。
本当にせっぱ詰まって、大変だった。けれど、今は、違う。そんな余裕があるのだから、あの人にもしっかり、この5年間で考えた長い長いお礼の言葉を間違えずに伝えることが出来るだろう。この感謝しても仕切れない気持ちを、ちゃんと伝え、あの時貰った腕輪を返す。そうしたら、彼女はもう必死に時を渡る研究をする必要はなくなる。ずっと言いたかったお礼の言葉を伝えられて、とてもすっきりするだろう。なのに、何故か彼女の心の奥で、微かに、でも確かに胸を圧迫する動きがあった。
「確か、こんな風に座って‥楽器を弾いていたんだっけ‥‥」
その感覚を誤魔化すように呟くと、彼女は、枯れた泉の真ん中、大きな石の上に座り、覚えた曲を弾き始めた。
ぽろん、ぽろん。
彼女の細い指が、弦をゆっくりと弾いて、穏やかな、優しい音色が微かに花々を揺らす。
ぽろん、ぽろん。
その懐かしいメロディーは、月の光を浴びながら、森中の隅々まで優しく響いた。
やっと会える。会えるから。
もう、約束は果たされる。たった一つの約束は、無くなる。
小さな少女の小さな小さな願いも、これで終わり。これで、お終い。
「あ、分かった」
胸の中にいた小さな自分が、心許なげに、あの頃より大分大人びた自分を見上げてきた。
「心の拠り所が、あの時生まれた小さな夢が無くなってしまうことが、悲しいの?」
小さな自分は、ただ寂しそうに見上げてくるだけ。
「小さな頃、大事なものを亡くすのが嫌いだった‥だからこんなに、痛いのかな」
理由の分からない痛みの正体を垣間見た気がしたリルは、目を瞑って、夜空を見上げた。目を瞑ると鮮やかな満月は見えなくなるが、見ようと思えば、瞼の裏には今にも消えそうな、儚い光を瞬かせる銀の星が見えた。夢の光が、今にも消えてゆきそうだからだ、と思った。
最期の音は、ぽろん、と何の余韻も残さずに消え、小さな自分は、困ったような顔で首を振った。
「――あなたは‥‥時渡り様‥‥‥ですか‥?」
ふいに、耳を掠めた小さな、幼い声。
「――――――!?」
驚いてそちらを見ると、緑色の瞳をした小さな男の子が、呆けたような顔でこちらを見上げていた。
緑。自分と、あの人と、同じいろ。
深い森、不思議な音色、石の上に座る、小柄な魔導師。
あの時の記憶が焼き付けられた写真が何枚も何枚も、頭の中に映し出されて、彼女の驚いた顔は、段々と穏やかな笑顔に変わっていった。
『‥‥銀月灯には月の魔力が籠もる。お前の知らない時代から、その花をとりに来た。‥‥それと、遙か昔に出会った、恩人に会いに』
あの穏やかな声が、じんわりと、月の光よりも心地よい響きをもって甦った。
さあ、今度は私の番―――。
リルはばれないように小さく深呼吸してから、確かに自信を持って、言うべき言葉を唇に乗せた。
「そうだよ」
心の中の小さな自分が、声を上げて、楽しそうにきゃらきゃらと笑った。
瞼を閉じれば、きらきら、きらきら。
本人にはばれないように密かに、でも確かに。
あたたかな灯りが、また、ちらりと瞬いた。
そしてこの物語は、悠久の孤独を生きる時の精霊に、少女が捧げた物語。
暇つぶしに過ぎないけれど、少女にとっては最も大切な、小さな夢と、初恋の話。
さて‥時の孤独と退屈は、少しでも癒されただろうか?
Fin.
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